ここんところワケ分からん、それでいて、とっても考えさせてくれるニュースが続いている。
大阪で起きネグレクト事件にしろ、高齢者の所在が多数不明になっている問題にしろ、なんとも、今の世の中の人間関係の希薄さを象徴しているようで、物悲しい・・・。

最近のニュースで唯一微かな希望?に思えたのが、長崎・広島の「原爆の日」に国連事務総長やアメリカ大使ほか(中国以外の)核保有国代表が出席したこと。日本の総理大臣でさえ初めて式典に出席したのは、1972年の佐藤栄作総理だった、ことを思えば、世の中進歩はしている。

そうこう思って昨今、ネット書評でこんな記事がでていた。

「一億総ガキ化」という新書。以下、その記事からの引用・・・・

名古屋の設計事務所、建築家の書評引きこもりやモンスター○○といった人たちに象徴される人間像を著者は“ガキ”と呼び、彼らに共通するのは、強い自己愛と成熟を拒否すること。「大人になる」というのは『なんでもできるようになること』ではなく、むしろ「何でもできるわけではないということを受け入れていく」ということ。なんでも親が身の回りを面倒みてくれるという、幼児的な万能感をもって、自分の思いとおりにならない「現実」と向き合うことができないのは、まさに子どものまま、ガキのまま、なのである。伝統的な社会や文化の下では、規範やしきたりによって人々は縛られてきた。しかし、いま思えば、こうした規範や貧しさなど外的な制約によって、人生は思い通りいかないことを子供のころから身をもって学んできた時代があった。それが、豊かになって、外部からの規範から解放されて自由になり、「自分らしさ」や「自己実現」を追求できるようになった一方、その代償として自己責任がのしかかってきた。失敗すれば向き合うのは自分自身という社会になった。

我が身振り返ってみても思う・・・ウチの子供みていても、なんとも「人生は思い通りいかないことを子供のころから身をもって学ぶ」という体験があまりに少ない、いや、親がそのようにはさせてこなかった、ように思う。親としては、すべからく「子供の転ばぬ先の杖」を用意してしまっている。いまの世の中、かつての村社会・家父長制度的な「理不尽さ」は殆ど排除されてきて、その結果、個人の「自由・権利」が尊重され、多くの日本人が「自由」を謳歌できるようようにもなった。いまどきの日本、どこぞの国々と比べて民度は進歩して結構なことではあるが・・・一方では個人の「自由・権利」が尊重されるのはいいが、それと引き換えに「思い通りにはならなかった場合の我慢強さ・打たれ強さ」がなくなってきている「大人になりきれないオトナが」増殖しているのか・・・。いまいちど、日頃の生活の中で失ってしまったもの、失敗したもの、の対象をしっかりと認識し直すべき、なんだなあと思う。

「原爆記念日」の話し・・・日本の総理大臣が、式典では「核なき世界」訴えておきながら、後から「米国の核の傘は必要」という、矛盾した発言している。管さんとしては、現実の日米安保がある以上理想と現実が違う、とは分かっちゃいるが・・・まさしく「何でもできるわけではないということを受け入れていく」ということなんだろう。大事なのは「矛盾した現実」を受け入れてしまっているという認識のもと、その矛盾をちょっとづつでも解決していこうという姿勢を示していくこと。形骸化が疑われる非核三原則を法制化するとか、唯一の被爆国として国際社会でリーダーシップを発揮するとか、やるべきこと、とるべき姿勢というのは一杯ある、と思う。

名古屋の建築設計事務所スタッフのブログ/ほめれば伸びるタイプなの。

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